カトリック佐賀教会の創立に貢献した平山要五郎神父

 ラウレンシオ平山要五郎(通称:牧民)神父は、長崎県五島市岐宿町水ノ浦、旧キリシタンの出身で、五島列島では島田喜蔵神父に次いで2番目に叙階した司祭であり、福江島ではキリシタン復活後、最初の司祭である。1889(明治22年)2月10日叙階。かつてソーレ神父の片腕として隠れキリシタンを励まし、基山地区の仏教徒をカトリックに導くとともに、初期カトリック信者の指導に携わった筋金入りの司祭でもあったが、司牧上上司と意見の対立があり、破門に近い「聖職停止」の処分を受け悶々の日を送る。1918(大正7年)5月25日逝去、59歳。お墓は郷里の水ノ浦惣津の共同墓地に納められている。



 ここに佐賀教会で最も古い一枚の写真がある。平山牧民(要五郎)神父と6人の少年達が写っているのがそれで、佐賀市中ノ小路の仮教会時代のものであろう。同神父は情に厚く、ずば抜けた秀才で、質実剛健だったという。

記録によると明治32年大塚清吉氏(大塚哲子さんのご主人)がフランシスコ・ザベリオの霊名で12歳の時平山神父から、洗礼を授けられている。最初の教会の位置は現在地(中央本町)の敷地で当初の教会は藁ぶきであったという。その後火災に遭い、前述のとおり暫くの間明治橋通りに移ったといわれるが、その明治橋通りには既にルーテル教会ができていたわけで、極めて近くにもう一つのカトリック教会が同居したことになる。

当時の時代背景

日本のキリスト教史家は明治23、4年以降明治末年までを「闘争時代」「試練時代」等と呼んでいる。明治23年頃から教会の活動は次第に困難になってきた。キリスト教が憲法によって認められたその時から、教会に対する新しい迫害さえ始まり、前途誠に暗澹たるものであった。

平山牧民神父は以上のような時代背景の中で苦難を真向にしながらも、ひたむきに宣教司牧に心を傾け、信仰の自由を得た喜びを感謝しつつ、佐賀教会の初代主任司祭として席の温まる暇もなく東西奔走司牧に専念していた。久留米教会からソーレ神父の命により佐賀に赴任して間もなく火災に遇われたことは前述の通りであるが、その傷心にもめげず佐賀教会の基礎作りに専念された。当時、新しい受洗者は他の教会と同じように、さほど多いとはいえなかったようであるが、長崎方面からの移住者が少しずつふえ、その頃の写真などから推察すると信者数80人を下らなかったのではないかと思われる。

外国宣教師の優れた模範に倣い数少ない邦人司祭であった平山牧民神父は、その使命感に燃えながら宣教司牧に献身的努力をされるのであるが、邦人司祭なるが故に最もよく、当時の日本人の心を知っていた神父にとって悲しくも辛い出来事が起こったのであった。
今日では殆どの人々の記憶から忘れ去られてしまったが、古老の間で密かに語り継がれていた平山神父事件について、既に解決済みにもなっているので調査資料をもとに簡単に記述しておきたい。

平山神父事件

幕末の日本に最初宣教のために入国してきたカトリックの宣教会は申すまでもなくパリミッション会であった。同会による日本南緯代牧区時代(プチジャン司教の後を受け継いだクザン司教のころ)平山牧民神父ほか三邦人司祭が当時のパリミッション会の方針をめぐって司教との間に激しい意見の対立が生じたことがあった。徳川三百年の長い弾圧からやっと自由を得たばかりの長崎のキリシタン達にとって、ヤンセニスムの影響を強く残していたミッション会員たちの司牧の在り方があまりにも厳格すぎることを3人が憂慮してのことだったといわれる。

平山牧民師らは、長崎の司牧事情の改善のため、他にもう一つの修道会(イエズス会)の誘致運動を計画、両者の競合司牧により現状の改善を意図して、当時上海に来ていたイエズス会会員に会いに行くとともに、ローマに対し現状の告訴とイエズス会を長崎教区に誘致する請願書を送った。九州全土は当時長崎教区に入っており、パリ外国宣教会の司牧傘下にあった。

このため司教は、この三司祭に対し厳罰をもってのぞんだ。「破門」か「聖職停止」かは明白でないが、おそらく「聖職停止」と考えるのが妥当であろう。この処分に対し、のちにA師は司教の勧告に従い「和解」が成立したといわれるが、他の二師に関してはそのような証拠もなく、遂に生前には和解が実現しなかったのであろう。

平山牧民神父は、性、質実にして剛健、情に厚く、頭脳明晰であったと伝えられる。こうした苦悩と傷心を抱きながら、郷里五島水の浦で1918(大正7年)5月25日他界した。地元民の話では晩年惣津海岸端の小倉の村落でスータンを着けた神父の姿を見かけたともいう。埋葬に当たってはミサ用のビレッタをかぶせ、正装のうえ納棺し惣津墓地に埋葬した。葬儀には神父の立ち会いはなかったといわれている。墓碑には司祭の文字はなく、故、ラウレンシオ平山牧民之墓と刻まれ、大正7年建之と記されている。

 

1971(昭和46年)水の浦小教区が信仰自由100年祭を祝ったとき、主任司祭であった中田武次郎氏の要請に応え、里脇枢機卿は100年祭の特赦として故、平山師の受けていた処罰を赦免した。それまで水の浦の惣津墓地は、境内に同神父(聖職停止または破門者)の墓があるとの理由で、教会墓地としての公的祝別がなされていなかったのが、100年祭と特赦にあたり、中田神父によって同墓地は正式な教会共同墓地として祝別され、同墓地にて感謝のミサが捧げられたという。

事件の当時を思うと、三師の司牧的な熱意と勇気は、よく理解され、評価される一面、司教に対する司祭の服従は絶対的とされた時代だけに、三師に対する司教の処分もまた当然であったと思われる。
ともあれ、里脇枢機卿の「水の浦教会信仰自由100周年」にあったての平山師への特赦は、他のT師をも含めてこの事件に決着を与え、和解が実現したことを意味する。今日では既に殆どの人々の記憶から消え去ろうとしているが、明治期の信仰自由の過渡期における邦人司祭なるが故の痛ましくも哀しい一事件であった。

佐賀カトリック教会史「80余年の歴史を顧みて」より抜粋

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